今回は、現在ボストン・レッドソックスに所属し、外野手として活躍している吉田正尚選手のワダイです!
WBC2023日本代表・侍ジャパンメンバーに選ばれ、現在ボストン・レッドソックスに所属する外野手、吉田正尚選手。
彼は日本を代表する強打者として知られていますが、どのような学生生活を送り、どのようにその才能を育んできたのでしょうか?
吉田正尚選手の学歴や出身校、少年時代の所属チームやエピソードについて詳しく紹介します!
- 吉田正尚選手プロフィール
- 吉田正尚選手の学歴(小学・中学・高校・大学)
- 吉田正尚選手の凄すぎる昔のエピソード
吉田正尚選手プロフィール
名前:吉田正尚(よしだ まさたか)
出身地:福井県福井市
生年月日:1993年7月15日(30歳)
身長:172.7 cm
体重:79.8 kg
投球・打席:右投左打
ポジション:外野手、指名打者
プロ入り:2015年 ドラフト1位(オリックス)
吉田正尚選手は、現在ではメジャーリーグのボストン・レッドソックスに所属するプロ野球選手です。
彼は大学を卒業後、ドラフト会議でオリックス・バファローズから指名を受け、プロの世界へと駆け出しました。その後、2023年からはボストン・レッドソックスの一員として活躍しています。
次の章からは野球を始めた小学校時代からの経歴を詳細にまとめています。
彼が「天才」と称されるようになった起源を探るために、彼が通った小学校、中学、高校、そして大学の名称と、学生時代のエピソードを紹介します。
吉田正尚選手の学歴(小学・中学・高校・大学)
吉田正尚選手の学歴を小学校時代から順に見ていきましょう!
吉田正尚選手の学歴(小学)
吉田正尚さんの出身小学校は、公立の福井市立麻生津(あそうづ)小学校。
小学生となった吉田選手は、学業と並行してスポーツにも熱心に取り組んでいました。
特に野球への情熱はひときわ強く、彼が一生懸命にプレイする姿が地元の軟式少年野球チーム、麻生津ヤンキースの目に止まります。
このチームとの出会いが、彼の野球人生の第一歩となりました。
吉田正尚選手の学歴(中学)
吉田正尚さんの出身中学校は、地元福井市内の公立校・福井市立足羽(あすわ)中学校。
2006年に福井市立足羽中学校への入学。
中学時代にボーイズリーグの鯖江ボーイズでプレーしました。当時の彼は今ほどがっちりとした体格ではなく、目立つ選手ではなかったようです。
吉田正尚選手の学歴(高校)
吉田正尚選手の出身高校は敦賀気比高等学校。
2009年に敦賀気比高等学校に入学し、2012年に卒業。硬式野球部では1年生の時から4番打者として活躍しました。甲子園には高校1年生時の夏の大会と高校2年生時の春の選抜に出場しました。
吉田正尚選手の学歴(大学)
吉田正尚選手の出身大学は青山学院大学 社会情報学部 社会情報学科。
2012年に青山学院大学に入学。野球部では1年生の春から4番を打ち、東都大学野球春季リーグでは指名打者としてベストナインに選出されました。その後も多くの大会で活躍し、日本代表としても選出されました。
吉田正尚選手の昔の凄すぎるエピソード!
ここからは、吉田正尚選手の小学校・中学・高校・大学で天才と呼ばれた学生時代の凄すぎるエピソードを紹介します!
小学生時代エピソード
吉田選手は、小学1年生の時に地元の軟式野球チーム「麻生津ヤンキース」に参加し、野球の道を踏み出しました。
彼は最初はキャッチャーのポジションを担当していました。この頃から彼は頻繁にメジャーリーグの試合を視聴しており、そのフルスイングに魅了されました。
それまでの吉田選手は、ホームランを打つというよりは、「遠くへボールを飛ばしたい」という強い願望を持っていました。
彼は自身の小柄な体でもボールを遠くへ飛ばせると信じて、スイングスピードを上げることを考えました。
そのため、小学2年生の時には中学生が使用するような重いマスコットバットを父親に誕生日のプレゼントとして求めたそうです。
初めてその重いバットを手にしたとき、彼はそれを上手く振ることはできませんでした。しかし、「この重いバットが軽く感じられるようになりたい!このバットを使っても体が揺れることなく振れるようになりたい!」という強い意志を持って、毎日練習に励んだそうです。
その結果、吉田選手は小学校の卒業文集に「将来の夢は大リーガー」と書くほど、野球への情熱を深めました。
中学生時代エピソード
吉田正尚選手は地元の福井市足羽中学校に進学し、その頃の身長はまだ160cm台でしたが、名門チーム「鯖江ボーイズ」の一員となりました。
彼の野球への考え方は既に高校生並みだったそうです。
彼が所属した「鯖江ボーイズ」の監督、佐々木昭弘氏は、彼に対して「全力で打つこと、全力で走ること」を強調していました。
吉田正尚選手は、中学一年生の頃に肘の怪我で試合に出ていなかったようですが、その怪我が完治し、再びプレー可能となったとき、彼は瞬く間に頭角を現したそうです。
彼が中学二年生になると、打球は日に日に伸びるようになり、彼は学年で唯一のレギュラーとなりました。また、彼は三年生の中で唯一、打順5番を打つこともありました。
場外ホームランを連発しすぎて専用ネットが設置
当時、彼が所属していた「鯖江ボーイズ」の練習場は、福井市が運営する西山公園野球場で、両翼は91mあり、右側には道路を挟んで住宅が建っていました。
吉田選手は打撃練習で場外ホームランを連発し、その結果、福井市は右側に防球ネットを設置することを決定しました。
このネットは「吉田ネット」と呼ばれ、吉田選手の伝説となりました。
吉田選手は中学生時代から、小柄な体格からは想像もつかないほどの飛距離と長打力で注目を浴び、多くの強豪高校の監督からの注目を集めました。
そして、彼自身が進学を希望していた敦賀気比高等学校の東哲平監督から声を掛けられ、高校への進学を決意しました。
吉田選手はいつも練習に真剣に取り組んでおり、彼が何か練習をしたいと思ったときには自ら監督に申し出るなど、野球への姿勢が高かったと言われています。中学3年生になると、彼は完全にチームの中心となりました。
高校生時代エピソード
吉田選手は入学直後から敦賀気比高校の東監督に注目され、1年生の春から4番ライトとして出場します。
彼の高校生活初日の印象は、「どえらいやつが入ってきた!」というものでした。
吉田選手が打球を出す時の音は、まるでボールを潰しにいくかのようで、長打も120mを軽々と飛ばしていました。
吉田選手は1年生から痛烈な打球を放つことで先輩たちに恐れられ、すぐに4番ライトのレギュラーになりました。
体格は他の高校生よりも小さく、身長170㎝、体重67キロでしたが、そのサイズからは想像もつかないパワーを発揮しました。
吉田選手の凄さはチームメイトにも広がり、彼がバッティング練習を始めると、3年生たちは後輩に場所を譲るほどでした。
2009年6月の北信越大会では、桜井高校との対戦で4番打者として出場し、1打席目からシャープなセンターヒットを放つなど、打者としての素晴らしさを見せつけました。
また、1年生の夏には、打率7割を超える活躍を見せ、甲子園出場を果たしました。
吉田選手は1年生から重要な試合で大いに貢献し、同年秋には北越後大会準決勝と福井県大会優勝を果たしました。
高校1年生の時からすでに、吉田選手は三振が少ないことで知られていました。その力は練習の成果だけでなく、生まれつきの才能でもありました。
彼のバッティングは体の回転の速さやスイングのねじれから生まれ、終わった後の体の動きからその特徴が見て取れます。
彼の高校時代は、今ほど筋肉質ではなく、むしろ細身だったといいますが、同級生からは骨格が生まれつきしっかりしていることが見て取れました。
ファーストゴロで一塁手が骨折?
彼が放つファーストゴロの強さは、対戦した高校の一塁手が鎖骨を骨折するほどで、その評判はすぐに広まりました。
高校2年生の春には選抜に出場し、天理高校に対して3安打を放つなど、スラッガーとして注目を浴びました。
また、2年生の夏の甲子園では、4番打者として花咲徳栄高校との試合で驚異的な弾丸ライナーを放ち、チームをベスト8まで導きました。
しかし、彼の高校生活最後の年では、甲子園出場は叶わなかったものの、52本の本塁打を記録するなど、そのパンチ力を発揮し続けました。
これは大谷翔平の56本などと並ぶ記録です!
過去に一度も「反対方向に打つように」との指導を受けたことがなく、それが彼の成長に寄与しました。ただし、3年生のシーズンでは対戦相手に避けられ、打つことができずにスランプに陥ることもありました。
高校卒業時には、守備や走力、肩力が特に秀でているわけではなかったため、ドラフトの有力候補にはなりませんでした。
しかし、強打者としての評価は高く、青山学院からスカウトされることとなりました。
大学生時代エピソード
青山学院大学に入学した2012年、吉田正尚さんはすぐにその才能を発揮しました。
青山学院大学入学後の2012年5月に行われた中央大戦で、相手投手は鍵谷陽平という有力なドラフト候補、現在巨人に所属する相手投手のストレートに臆することなく対峙し、ライト前に見事なヒットを放ったのです。
1年生から打率3割を越える成績を叩き出しました。
1年生のときに指名打者としてベストナインに選ばれ、2年生の春季リーグでは外野手に転じて再度ベストナインに選ばれました。
大学二年生でありながら、2年連続でベストナインに輝いた吉田正尚選手は、プロスカウトの目を引く存在となりました。
しかし、2年春のリーグでは吉田正尚選手がリーグトップの4本塁打を記録しましたが、12試合で11三振、打率.222という結果から彼の粗さが露呈しました。
彼の打撃スタイルは高校時代の猛烈なスウィングから「三振か長打か」という極端なものに変わっていた時期でした。
大学1年生のときに「自分の力は十分」と誤解していた彼は、しばらくの間、何も変化させずにプレーしていました。しかし、一度対戦チームから彼のデータが解析され始めると、打率は大幅に下降しました。
大振りが目立ち、三振が頻発するようになった吉田選手は、さらに詰まるようになり、どんな状況でも同じスウィングを続けていました。これにより、彼の打撃には幅がなく、ピッチャーにとっては打ち取りやすい打者となってしまっていたようです。
変化を模索
しかし、ここから変化を模索していきます。
アマチュア野球界のトップレベルの選手たちを観察するうちに、「自分の意識レベルが低かった」と吉田選手は自己反省しました。
これまでは自分の興味のあることにしか専念していなかった彼は、「足りていない部分は学び、取り入れるべきだ」と理解し、厳しいトレーニングにも取り組むようになりました。
彼が2年次からジャパンチームに選出されたことが大きな影響を与え、その結果、彼の体つきは明らかに大きくなり、自在にボールを操作する力が増していきました。
彼は長打力を保持しつつも、高打率を達成できるようにスキルを進化させていきました。
大学3年生になると、彼は自分の意識を変え、更なる成長を遂げました。ただボールを遠くに飛ばすだけではなく、状況に応じて力強い打球を逆方向に打つなど、自分の打撃に幅を持たせるようになったのです。
その結果、彼は「ハーレムベースボールウィーク」の日本代表に選出され、プロのスカウト陣から注目される存在となりました。
大学ジャパンに選ばれ、通算100安打を達成した吉田選手は、自らが掲げた目標を一つ一つ達成していき、その成果が評価されました。
侍ジャパン大学代表として、全試合で4番を務めるなど、その存在感を示した彼は、プロへの道を切り開いていきました。
吉田正尚選手の大学時代は一筋縄ではいかない戦いの連続でした。しかし、その中で彼が絶えず成長し、スカウト陣から注目される選手へと進化していきました。
吉田選手の大学でのリーグ成績は一見すると起伏がありますが、成長と試練の足跡が見て取れますね!
大学時代の監督も吉田正尚選手を高く評価
吉田正尚選手の大学時代の監督、善波厚司氏は、彼の能力について大学在学中から高い評価をしていました。
善波監督によれば、大学時代の吉田選手は「野球への取り組み方が入学当初から他の学生と一線を画していた」と語り、「守備力、走力、投球力といった面では平均的だったが、強打者としてその力強いスイングは目立っていた」と彼の能力を評価しました。
さらに、彼はメンタル面でも高く評価され、他の部員と比べても「プロ野球選手になる」という強い意志を持ち、その目標達成のために何をすべきかを考え行動する思考力と具体性が抜きん出て優れていたと述べました。
少年時代から非凡な成績を収めてきた吉田選手ですが、その天才性の背後には、無数の努力の積み重ねが存在していたことが明らかになりました。
彼は努力を惜しまない天才であり、成功する野球選手として必要な思考力を兼ね備えた実力者と言えます。
2015年に大学を卒業後、NPBドラフト会議でオリックス・バファローズから1位指名を受けてプロ入りを果たし、2023年には数少ない選手だけが到達するメジャーリーグの舞台で活躍を始めました。
まとめ
今回は、現在ボストン・レッドソックスに所属し、外野手として活躍している吉田正尚選手の学歴や少年時代の所属チーム、出身校や昔のエピソードを紹介しました!
吉田選手の成長過程を追ってきましたが、一貫して努力と才能が組み合わさった結果が今の成功に繋がっていることが見て取れますね!
吉田選手のメジャーリーグでの更なる活躍が期待しましょう!
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